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誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13
By 鉄拳
レビュー対象商品: ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書) (新書)
「まえがき」と「あとがき」によれば、本書はキリスト教というものが何であるかを明らかにすることを目的としているとのことです。しかし、本書に少しでも目を通せば分かることですが、本書で説明されるキリスト教は(そして、ユダヤ教やイスラム教などは)、主に橋爪大三郎氏による誤解と偏見と勉強不足の産物以外のなにものでもなく、つまりは現実のキリスト教を(そして、ユダヤ教やイスラム教などを)理解する助けとは 全 くなりません。
言うなれば、本書は橋爪大三郎氏が勝手に考えたキリスト教を描き出し、それを使って都合よく社会的な事象を説明している、ファンタジー小説です。ですから、本書を読んで面白いと感じられた方は、それを知的興奮と誤解されないよう気をつけられたい。
また、本書には基本的な誤り(キリスト教あるいは聖書をきちんと勉強している者であれば決して間違えないようなもの)が多く、更に、他の宗教、特にキリスト教を説明する際に引き合いに出されるユダヤ教に対しては一昔前の差別的な誤った学説がそのまま踏襲されている箇所も見受けられ、これらの点については橋爪大三郎氏と大澤真幸氏に驚くとしか言いようがありません。
ただし、橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の主張、つまりキリスト教を理解していない日本人が多い、というもの、は正しい。これは、本書に対する肯定的な評価が多いことが示している通りです。
(以下、『ふしぎなキリスト教』における問題点の一部を挙げる。これだけの誤りがある本が、本当にキリスト教を理解するために役立つと、このレビューを読まれた方は思われるだろうか。むしろ、本書によってこそ、読者のキリスト教理解は遠ざけられていると皆様は考えられないだろうか。
・「ユダヤ教もキリスト教も『ほとんど同じ』なんですと橋爪氏(16頁)
→確かに「議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で」ユダヤ教とキリスト教の「関係を端的に」のべると、という断りがあるが、しかしいつの時代のユダヤ教或いはキリスト教が同じか、ということも語らないような、飲み屋談義で本書ははじまっているのは明らか。ユダヤ教もキリスト教も21世紀の現在のような形に突然なったわけではない。ここでもう既に橋爪氏は学問的正確さを投げ捨てていると言えよう。
・「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」と橋爪氏(17頁)
→ヘブライ語では勿論皆さんご存知の通り「油注がれた者」。このくらいのレベルから間違えている。
・「『神の子、イエス・キリスト』」は預言者ではない。預言者以上の存在です。なにしろ本人が神(の子)なのですから」と橋爪氏(17頁)
→以下でも繰り返し指摘することになるが、橋爪氏は「神の子」という概念を全く分かっていないことが既にここで明らかとなっている。このように、「神の子」というキリスト教にとって重要な概念を全く知らないにもかかわらず、橋爪氏はキリスト教を解説しようというのである。
・「Godを信じるのは、安全保障のためなんです」、と橋爪氏(23頁)
→ユダヤ教徒をここまで馬鹿にした言説を語るとは、と呆れてしまう。
・「イエス・キリストは『愛』をのべて」ユダヤ教の神に対するよそよそしい関係の「大転換が起こるんです」とは橋爪氏(23頁)
→確かにイエスは神と隣人を愛せと命じたが(マルコ12章30節など)、これはユダヤ教にとって重要な教えであり、それをイエスは繰り返したに過ぎない(イエスの言葉は申命記6章4節以下及びレビ記18節からの引用)。大転換でもなんでもなく、ユダヤ教の教えそのもの。なお、「愛」をイエスは教えの中で実はそれほど強調していない。むしろ強調したのはパウロである。橋爪氏は誤った通俗的キリスト教理解に従っているだけであり、宗教社会学者として問題であろう。
・「以下、マックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』(名著です!)を下敷きに説明します」と橋爪氏(26頁)
→確かにマックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』は名著だが、21世紀の今、古代ユダヤ教を説明するための情報資料として用いるというのは、ユダヤ教についての最近(と言っても、約100年間)の研究を無視します、と言っているようなものである。これはもはや知的怠慢としか言いようがない。つまり、「3 ユダヤ教はいかにして成立したか」「4ユダヤ民族の受難」は、正確な知識を求めて読むような個所ではない。
・「イエス・キリストの時代には、神殿で儀式を行う人びとはサドカイ派、律法を守る人々びとはファリサイ派」と橋爪氏(33頁)
→まったくの間違え。こんなことを書いた橋爪氏も恥ずかしいが、これを出版した講談社もどうかと思う。
・「律法学者をラビと呼びます」と橋爪氏(34頁)
→「ラビ」とはヘブライ語で「私の先生」。学者ではなく奇跡行為者であるハニナ・ベン・ドサが「ラビ」と呼ばれていたことを、橋爪氏はどのように考えられているのだろうか。このような適当な説明は、ラビ、という尊称は案外と難しい問題であることを覆い隠してしまっているので、問題。
・「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」と橋爪氏(41頁)。
→ベニヤミン族は南側というか中央部。
・「イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う」と橋爪氏(44頁)。
→宗教に「勝ち負け」をつける神経は全く信じられない。比較宗教学とは宗教の勝ち負けを考える学問なのか?
・史的イエスについての証言は「ユダヤ教側の文書とか、イエスを十字架刑で処刑したローマ側の文書」には見当たらない、と橋爪氏(134頁)
→ユダヤ教側の人物であるヨセフスは『ユダヤ古代誌』18巻でイエスについて言及している。これは後代の付加であり、ヨセフスが元来書いたものではないとの議論があるが、それを橋爪氏は知っているのだろうか?
・イエス・キリストについての証言は、複数あったほうがよいといえるから、「四つの福音書が新約聖書に残った」と橋爪氏(139頁)
→正典成立史をご存じないのか、勉強するつもりもないのか。まさかこんな理由で複数残ったわけではない。
・「いつキリスト教が成立したかというと、それは、パウロの書簡によってである」(139頁)
→根拠はパウロが「イエスの十字架の受難を意味づける教理を考えた」から、というが、その「教理」は徹底的にユダヤ教の聖書に基づいて形作られている点で(パウロはユダヤ教の聖書を引用して自身の議論を補強している)、ユダヤ教の枠内に留まっている。つまり、パウロはユダヤ教徒である。
・「預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので……、再来してもおかしくない」と橋爪氏(151頁)
→エリヤは終末前に再来するという思想があったことを知らないのか?(マラキ書3章23節)
・「メシアは、救世主なので」(152頁)
→他でもこのようなことを言っているが、メシアは神からの任を受けた人のことであって(それを象徴的に示す儀式が「油を注ぐ」こと。ヘブライ語のメシアは直訳すれば「油注がれた者」という意味であるのは、このため。間違えても「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」だ(17頁)と言ってはいけない)、メシア=救世主と断定できない。ちなみに、パウロは自分たちも「油注がれた者」と言っている(2コリ1:21)。
・「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方は……もう、ユダヤ教の考えではない」と橋爪氏(153頁)
→ユダヤ教の聖書(所謂「旧約聖書」)には「神の子」が複数出てきている。とすると、ユダヤ教の聖書はユダヤ教の考えではないというのだろうか?つまり、イエスが神の子だとしても、その考えはユダヤ教の枠内に収まっている。別におかしくない。
・「イエス・キリストは『神の子』だとする考え方を、確立したのはパウロです」と橋爪氏(153頁)
→ありえない。パウロは手紙においてイエスが神の子だということを、共通の認識として記しているので、パウロ以前と考えるのが妥当。大体にして、橋爪氏は「神の子」という概念を間違えているからこのようなことを言っているわけで、「義しい人」であれば「神の子」と言われる伝統は、ユダヤ教に見受けられる。例えば知恵の書2章18節。
・ペテロのキリスト告白に対して、イエスは消極的な肯定だと語る大澤氏に、橋爪氏は「それはマタイ福音書(16章16節)に書いてありますね」(157頁)
→消極的だと言うならばマルコ福音書8章27節以下を挙げるべき。マタイ福音書では、誰にも話さないようにとはペテロに言うが、キリスト告白に対しては肯定はしている。橋爪氏が福音書をきちんと読んでいないのが、ばればれである。
・「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていませんし、それらにしても、他人がそれほど深い思想的な意味も込めずに、思わずイエスをそう呼ぶ場面で出てくるだけです」と大澤氏(156頁)
→共観福音書で「神の子」は非常に非常に重要な言葉である。大澤氏と橋爪氏はイエスの洗礼の場面及び変容の場面でイエスはなんて言われているかくらい、調べてからこのように語るべきであった。読者に誤った知識を伝えるのが学者だろうか。
・「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです」と橋爪氏(158頁)
→「祭司的メシア」の存在をお忘れであろうか。祭司的メシア、即ち祭司の役割を果たすメシアは軍事リーダーであることを求められない。
・「ヘロデ大王の死語、四人の息子が国土を分割した」と橋爪氏(161頁)
→3人が正しい。大澤氏が「似たような名前の人がいっぱい出てくるので、こんがらがっちゃいますよね」と言っているが、だからこそ、きちんと調べるように。
・「ユダヤ教には、人の子という考え方はあったけれど、神の子という考え方はなかったと思う」と橋爪氏(167頁)
→旧約聖書をきちんと調べていないのが丸分かり。このレビューを読んでおられる方はヘブライ語やギリシア語が出来なくても、日本聖書協会の聖書検索
http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%90_%82%CC%8Eq
で日本語で旧約聖書に「神の子」が出てくることを調べられるので、確認して頂きたい。ここからお分かりになるように、165頁以降の「7 『神の子』というアイデアはどこから来たか」は、間違えだらけである。
・「エッセネ派は、裁きの日は近いと考えて、人里離れた山の中にこもり」、と橋爪氏(172頁)
→何を根拠にこんなことを言っているのだろうか。ヨセフスの『戦記』2巻第8章には「各町ごとに(共同住宅に)定住している」とある。
・「イエスは…死刑を覚悟していたわけだから、あまり時間がないんです。終末論的に行動していた、と言ってもいい」と橋爪氏(175頁)。
→死刑の覚悟と終末論的な行動は全く違う。何を言っているのだろうか?
・「ふつうのユダヤ教(パリサイ派)の考える復活だと、『その日』のあとにも、それまでの秩序が存続します」と橋爪氏(181頁)
→まず、ふつうのユダヤ教をパリサイ派としている時点で、アウト。パリサイ派のユダヤ教となったのは、イエスの活動後少なくとも40年以上経過してから(エルサレム神殿崩壊後)。「その日」、つまり終末後も「それまでの秩序が存続します」とは、何を根拠に言っているのか、不明。例えばヨエル書なんかを読めば、橋爪氏が間違えていることくらい、誰だって分かることである。
・「10 歴史に介入する神」(186頁以下)
→もう滅茶苦茶すぎてどこからどう突っ込めば良いのやら。ユダヤ教の無理解とパウロの思想の無理解とその後のキリスト教の思想の無理解を適当にブレンドして橋爪氏流の似非解釈を混ぜればこうなるのか。大体にして、これまでもそうだけれど、ここでも聖句引用あるいはラビ文献あるいは教父文書といった一次資料の引用が無いのは、引用できないからではないか、引用したら間違えがばれるからではないか。
・『最大の戒め』の話を挙げ、イエスは律法を「ほとんど中身ゼロにしてしまった」が、それはイエスによって「たくさんあった律法がたった律法が、たった二条になってしまった」から、と橋爪氏(196頁以下)
→どの律法が一番大事か、最大の戒めか、という問いは、ラビ(ユダヤ教の教師のこと)の議論に見当たり、その中でラビはある一条あるいは二条を最大の戒めとして挙げる、ということがあるが、彼らもそれで律法を「中身ゼロに」したのか?橋爪氏はラビ文献を知らないからこんなことが言える。勉強不足がここにも垣間見れる。
・「律法に強迫的にこだわりすぎて、律法を守ること自体を自己目的化する人が出てくる」と大澤氏(196頁)
→これは過去におけるユダヤ人差別の言説であり、大澤氏はユダヤ人差別をこの言説によって再生産していることを指摘しておきたい。近年の研究では、このようなパリサイ派理解は誤りであるとされている。
・「贖罪の論理」は「パウロの考えに基づいているのでしょうが」と大澤氏とそれを問題にしない橋爪氏(199頁以下)
→贖罪論はパウロが受け取った伝承である、つまりパウロ以前に成立していたとするのが一般的な学説である。
・贖罪の論理を同害報復の観点から説明する橋爪氏(200頁以下)
→ここは確かに橋爪氏は「よくわからない」と言ってから「私がいちばん納得しているのは」と話すから正直であるといるが、イザヤ書における苦難の僕についてくらいは書くべきであろう。これがイエスの死が贖罪であったとの解釈に大きな影響を及ぼしたと考えられているからである。
・「13イエスは自分が復活することを知っていたか」でイエスが「神の子」であると…、と論を進める橋爪氏(207頁以下)
→何度も繰り返し述べた様に、橋爪氏の「神の子」理解は誤っているので、「13イエスは自分が復活することを知っていたか」の議論は全て誤り。)
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橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の本は、ほとんどすべてが間違った前提から始まるので、ほとんどすべてがトンデモ本になっているよね。間違った前提から始まるのは、単に時間を取って基礎的なコースワークをズルすることなくやって、複数の文献にあたって、というような勉強をきちんとしていない(できない)だけなんだが。つまり、この人たちは大人になったら、勉強が全くできなくなるタイプの人たちなんだよね。聞きかじった耳学問から駄弁やブルシットを永遠に紡ぐことができるという特殊能力はあるのだけれど。
今どき彼らのような間違った「異説」に引っかかる精神的中坊なんているのかな?いずれにしろ、彼らはブルシッターやトンデモであることが全くブレないから、その意味で(負の)信頼のブランドだね。